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Daily life of mother of autistic child

- Daily life of mother of autistic child -

小さく、ゆっくりとした成長を見落とさぬように

自閉症と病院の組み合わせは、非常に相性が悪い。

うちの長男も小児科、歯科、耳鼻科、眼科どこに連れていくのも大変だった。病院に限ったことではなくて、日常と違った場所やものに対する不安がとてつもなく大きい。

自閉症のある子を育てる大変さの大半を、占めるのではないだろうか。

 

病気に付きまとう服薬もまた、大きな課題だった。病院に連れて行って終わりではないところが、また辛い。

正直なことを言えば、病院に連れていくのが大変な上に、服薬方法に悩まされるため、通院を避けたいと思ってしまうことがよくある。

それほどに、自閉症と病院の組み合わせは相性が悪い。

 

 

粉薬が飲めないため普段はシロップ薬でお願いしているが、時に抗生物質(粉薬)を処方されることもある。

 

これまでにも抗生物質を処方された際は、服薬ゼリーで対応していた。

バニラアイスやヨーグルトに混ぜる方法もあるが、長男は味覚が敏感なために混ぜると食べてくれない。

下手すれば、それ以降バニラアイスやヨーグルトを食べられなくなる原因にもなりうるため、慎重に対応せねばならない。

 

更に、こだわり故に「今アイスを食べる時間ではない」という拒否もある。

偏食のために食べられるものが少なく、「薬のため」といって普段食べないヨーグルトを食べてくれるわけがない。

 

”普通の子”ならば、成長と共に親の手を離れていくのだろうが、自閉症の子はそう簡単にはいかない。

年齢が上がるにつれて、こだわりが強まり、余計に対応に大変さを増すことがあるのだ。

 

5歳を過ぎてから”こだわり”が強くなった長男は、服薬ゼリーも受け付けなくなった。

詰んだ。どうやって抗生物質を飲ませたらいいのだ。原因を考える。

 

長男が服薬ゼリーを拒否するようになったのは、おそらく味だろう。

服薬ゼリーのぶどう味ではカバーしきれない薬の苦味、もしくはゼリー自体の味・触感の問題。近頃ゼリーを食べなくなっていたので、後者の可能性が高い。

 

一度ダメになると、どんな工夫をしても同じ手法は通用しない。

これが自閉症のある子を育てる難しさだ。

 

 

言葉でのやりとりにも、すぐに限界がくる。

 

お薬を飲まないと身体の中のバイキンをやっつけられないことは理解できても、自分がその薬を飲まなければならないことを理解できない。

しんどいから病院に行く、病院で薬をもらう、それを飲んだら元気になる。

ひとつひとつの点は理解できても、それを一連の流れに統合することができない。点のまま、線にならないのだ。

 

理解力の発達がゆっくりなことに加えて、こだわりや感覚過敏も相まって余計にこじれる。

そうは言っていても、飲まなければならない。時には、強行突破も必要だ。

手に水の入ったコップを持たせて、夫と2人がかりで口のなかに薬を流し込む。

すぐに水を飲むように促すも、薬をもぐもぐと味わってしまう。

口に何かが入っているときに、水が飲めないのだ。こういう動作の不器用さもつまずきの一つだ。

 

この強行突破は功を奏し、これを機に粉薬を飲めるようになった。

結果的に、こだわりが良い方向に進んでくれたようだ。

 

しかし、抗生物質を全て飲み切らないうちに長男はまた服薬を拒否。

「もうお熱下がった。ばいきんいない。お薬いらない」と言うのだ。私の言葉を理解している証拠なのだが、飲み切るように指示されているので、解熱したからと言って飲んでもらえないと困る。

言葉選びの重要さ、曖昧な表現に注意せねば、予期せぬ方向で受け止めてしまうということを、数か月前のインフルエンザに罹ったときに学んだ。

 

 

 

今回も小児科から抗生物質が処方された。

念のため、服薬ゼリーを買いに行くか長男に聞くと、いらないと。

食後に粉薬を促すと、自らコップを手にした。

口のなかに粉薬を流し込む。苦味か触感かに顔が歪むので、すぐに水を飲むように促すと、飲めた。

 

「ぼく、5歳だからね。ちょっと苦いけど、お薬飲めるからね」

 

苦味で少し歪んだドヤ顔が、なんとも誇らしい。

 

その次の服薬のタイミングでも、積極的に薬を飲んでくれた。

数か月前は、薬を飲む必要性をどれだけ説明しても理解できな」かった長男が、自分の体の悪い部分を認識し、それを直すために薬を飲まなければならないことを理解したようだ。

きっと、前回のインフルエンザに罹ったときに「薬を飲んだら元気になった」というのを身をもって経験したからだろう。

自閉症のある子にとって、良いことも悪いことも”経験”がとてつもない効力を持つようだ。

 

回数を重ねるごとに、通院を拒否することも減っている。

あんなに大変だったのに、今では事前に「ここが悪いから、〇〇先生の所に行きます」と言えば、すんなりついてくるようになった。

 

もちろん、待合室でじっとしていられないとか、先生に一方的に話し続けるとか。

ご褒美にくれるシールが気に入らないと癇癪を起こしたり、診察が終わると病院を飛び出してしまうなど、課題は山積みだ。

それでも、長男が自ら診察室の椅子に座って、先生の質問に答えようとするようになったことは、何回見ても泣けるほど嬉しい。99%会話にはなっていないが。

 

できないことが多いということは、生きていく上での困難の多さに比例する。それは裏を返せば、できるようになる可能性を持ち合わせているということ。

親はその可能性を信じて、”良い経験”をどれだけ積ませてあげられるのかが大事なのではないだろうか。

もちろん、身体的な問題、精神的な問題でどれだけ頑張っても習得できないこともある。それが人より多いことも、諦める場面が多いことも、事実だ。

 

だからこそ、”普通だったら”当たり前に習得していくことに時間をかけ、手をかけ、目をかけ、声をかけ、小さな一段を登ったときの喜びは赤飯レベルだ。

決して頂上に辿り着かなくても、これでもかと言うほどに胸に刻み込まれる。

そして、どんなに小さな成長でも、一緒に喜んでくれる人がいることに幸せを感じる。

 

そんな子育ても、最近は悪くないなと思えるようになってきた。私も親として、成長したもんだ。

 

子どもは、ちゃんと日々成長していく。

たとえ泣いて暴れて、成長が見えにくかったとしても、経験を重ねる度に何かを感じ取っている。

数ミリ、数秒単位の積み重ねは、やっと目に見えるくらいになるまでに、途方のない時間がかかるかもしれない。

 

それでも、取りこぼさぬように成長を感じていたい。

この目が、この耳が、この手が、届く距離にいる限り。

 

 

おまめ